「たちばな」第65号の巻頭言として、「故郷に誇りを ―自己のよりどころとして―」の題で、次のような文章を掲載させていただきました。
令和5年度は、今後の川之石高校にとって大きな意味を持つ1年となりました。令和5年3月に愛媛県県立学校振興計画が発表され、全日制の県立高校と中等教育学校が、令和9年度までに、現在の55校から45校に再編されることになったのです。八幡浜地区では、令和8年度に、本校と八幡浜高校、八幡浜工業校が統合されることになりました。2学期には新しい学校の校名を決めるためのアンケートが実施されたり、制服に関する話し合いが始まったりするなど、皆さんも、統合が近づいていることを実感しているのではないでしょうか。
ところで、この振興計画の策定に当たっては、地元の方たちの意見を聞くために、各地区で、「地域協議会」や「地域説明会」が開かれてきたのですが、県のホームページに掲載されている八西地区での記録を見ると、「八幡浜市3校の統合については、他地域に先んじた検討を」といった意見が出されるなど、県内の他の地域に比べて、高校の統合に前向きであったことが分かります。
このことについて、県内の産業や歴史に詳しい方が、「八幡浜は伝統的に商人の町だ。殿様に頼り従うのではなく、自分たちで考え行動する主体性と進取の気性を持っている。そのため、母校を残したいとの思いがあるのは当然である中、生徒数の減少等の状況から、市内3校を統合して南予最大規模の高校として発展させた方がよいと判断してこのような意見が出されたのだろう。」とおっしゃっているのを聞いて、なるほどと思いました。
皆さんは、この八幡浜地区が、古くは「伊予の大阪」と謳われ、中でも川之石は、明治11年(1878年)に本県で最初(四国で2番目)の国立銀行である「第二十九国立銀行」(今の伊予銀行)が設立された地であることは知っていると思います。
この資金を活用して、明治20年(1887年)に、四国で初の紡績会社であり四国で初めて電灯が灯された「宇和紡績株式会社」(後の東洋紡績)が設立され、同じ明治20年代に、別子銅山に次いで四国第2位の産出量を誇った銅鉱山が開発・操業されました。ちなみに、もともと川之石は埋め立てが盛んな地域で、川之石小学校や伊予銀行の辺りも海だったところですが、中学校の敷地はこの鉱山の廃石の捨て場として造成されたものです。二十九銀行を核として、川之石は、南予の商業・金融の中心地として発展しました。
では、なぜ、愛媛で最初の近代銀行が、松山でも宇和島でもなく、この川之石の地に設立されたのでしょうか。
雨井、川之石という良港を持つ川之石は、江戸時代から海運業が盛んでした。川之石の廻船問屋は千石船を持ち、地域特産の「木蝋」や魚、九州方面の米や材木などを大阪に輸送していました。川之石や周辺の豪商や豪農らも、この大阪との交易にはもちろん、長崎貿易にも直接関わっていたそうです。明治時代の記録ですが、川之石村の帆船は約500隻、年間の出入港は約2600~2900隻もあったということです。
この海運を通して、日本の商業の中心であった大阪(川之石出身者も多くいた)から、最新の知識と情報が、松山などは飛び越えて届けられていたことが、ここ川之石における銀行の設立と、その後の発展につながりました。当初、銀行設立の話は宇和島に持ち掛けられたそうですが機運が盛り上がらず、その話は「蝋座」を設けて金融が豊かであった川之石に持ち込まれました。話が持ち込まれて半年後には銀行が営業を開始しており、その対応の早さには驚かされます。
銀行を立ち上げ株主となったのは12名で、士族は含まれておらず、ほとんどが保内組の商人たちでした。設置場所は川之石浦5番地、資本金は10万円で、これは現在の価値に換算すると十数億円に当たります。話を持ち込んだ伊達家や公的な機関からの出資は一切なく、この金額を分担するため12名は同盟書を締結するなど、非常な覚悟を持って設立に臨んだそうです。
このように、ここ川之石に設立された二十九銀行は、商人の手によって生まれた銀行で、貸出先も商人が中心でした。これは、この後、松山と西条に設立された銀行が、秩禄処分の一環として士族らに交付された金禄公債の資金をもとに士族を中心に設置され、貸出先も士族の新規事業が中心であったのと対照的です。
この地域の発展に大きく貢献していった二十九銀行の設立とその背景には、ここ川之石の人たちの、先進性や企業家精神がよく現れていると思います。
そして、ここ川之石の人たちの、新しいもの、新しい世界を求める精神が現れているのは、商業の分野だけではありません。世界初の、個人の船での太平洋帆走横断も、ここ川之石港から川之石の人たちの手によって行われました。
これを成し遂げた吉田亀三郎は、明治5年(1872年)2月28日に、川之石村楠浜で生まれました。亀三郎は、宇和海の腕のよい叩き上げの漁師で、ヤマたてがうまく操船にも長け、船長としての判断力や胆力にも優れていたので、「漁師の神様」と称されていたそうです。30歳のときにシアトルに渡り5年間働いて財をなし、帰郷して事業を始めましたが、ペストの流行が原因で失敗に終わりました。失地回復のため再度アメリカを目指しましたが、日本人の流入が警戒され労働移民が禁止されていたため、亀三郎は自ら船を仕立ててアメリカに渡ることを決意したのです。
明治45年(1912年)5月5日、リーダーで船長の亀三郎を始めとする5人は、住吉丸という「打瀬船」(底引き網で漁をする帆船。船体は伝統的な和船構造で、3本の帆柱を持つ)」で川之石港を出発、一路ワシントン州シアトルを目指しました。途中、進路を失い、南のガラパゴス諸島辺りまで流されたりしましたが、そこから北に向かって航海を続け、日本を発って76日目の7月18日に、目的地のシアトルより2000キロ南のサンディエゴにたどり着きました。この住吉丸の航海は、個人の船で成し遂げられた、世界初の太平洋帆走横断です。
亀三郎をリーダーとする5人の太平洋横断は、日本人排斥の動きのある中でも、小さな船で太平洋を渡ったセーラーたちの快挙として現地の新聞でも報じられましたが、この時は移民局により強制送還されてしまっています。しかし亀三郎は翌年もまた、川之石港から大規模に25人の仲間を引き連れて2度目の太平洋帆走横断を成し遂げ、カナダへ上陸しました。この時は取り締まりを逃れ、アメリカに移動して財をなし、日本にも何度か帰国しています。記録によればカナダ東部の鮭魚場で一番の船頭として働き、サーモン漁等で行なわれるトローリング漁法(打瀬舟漁法?)を現地の漁師たちに教え、現在まで受け継がれているそうです。
この小さな船で行われた太平洋帆走横断という偉業も、ここ川之石の人たちの、積極性とチャレンジ精神を現していると言えるのではないでしょうか。
川高生の皆さんは、ここ川之石の地と川之石の人たちが、このように素晴らしい歴史と伝統、精神と行動力を持っていることを誇りとしてください。これから社会に出れば、勉強、運動、仕事など多くの分野で、自分より優れた才能や実力を持った人たちと出会うことになります。これまで自信を持ってきたものについても、その自信を失ってしまうことがあるかもしれません。しかし、そのようなときにでも、絶対に負けないものが、自分たちの故郷や故郷に住む人たちに関する知識や思いです。
川高を巣立っていく3年次生の皆さんは、故郷への誇りを自己のよりどころとして、迷ったときにはいつでも頼り、帰ってきてほしいと思います。故郷は皆さんを温かく迎え、支え続けてくれることでしょう。