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農業クラブ各種発表校内大会

2024年6月18日 14時43分
校長室より

農業クラブ員による意見発表とプロジェクト発表が行われ、次のような挨拶をさせていただきました。

皆さん、こんにちは。

私は、日頃の皆さんの、花や果樹・野菜、畜産、加工品など、様々な分野での各種大会やコンクールにおける活躍を、ほとんどは、先生方からの報告書、そして、新聞やテレビでの報道があったときには、その記事や映像で見させていただいていますが、なかなか皆さんの活躍を、実際に、この目で見る機会がありません。

そのような中で、本日は、皆さんの、日頃の取組の成果を、実際に見聞きすることができるということで、大変、楽しみにしています。

昨年もお話ししたのですが、私は、庭に植えている木を自分で剪定する度に、植物の成長の勢いには驚かされ、植物の再生可能性、農業の持続可能性を、実感しています。

と同時に、そのような力を持った植物も、虫や寒さにやられたりすると、一気に弱ってしまうことも経験しています。

農業は、人類の、持続可能な社会に欠かせない産業ですが、その実現に向け、解決し乗り越えていかなければならない課題、それは例えば、気候変動、市場の嗜好の変化、グローバル化への対応などが挙げられると思いますが、数多く残されています。

みなさんの発表が、これらの課題の解決に、少しでも役立ち、持続可能な農業や地域の実現につながることを期待しています。自信を持って堂々と発表してください。

最後になりましたが、この発表大会に向けて、準備をしてくれた生徒の皆さんや先生方に感謝の意を表して、挨拶とさせていただきます。

四国総体壮行会

2024年6月7日 10時46分
校長室より

四国総体の壮行会で、次のようなお話をさせていただきました。

四国総体に出場する選手の皆さん、そして全校生徒の皆さん、おはようございます。先日の土曜から月曜にかけて、県総体が開催され、本校からも多くの選手の皆さんが試合に参加しました。私も、応援に行き、全ての競技は、見ることができませんでしたが、仲間と共に、全力で戦う姿に心を打たれました。そして、勝負というものは、本当に厳しいものだな、と改めて実感させられました。

たった一つのプレイ、ほんの一瞬の判断で、勝負の流れは大きく変わります。今回、敗れた選手の皆さんは、この経験を、今後の部活動や学校生活、社会生活に生かしてほしいと思います。

そして、そのような厳しい戦いの中で、素晴らしい成績を収め、四国総体への出場を勝ち取った、陸上部、卓球部、社会体育部少林寺拳法の皆さん、本当におめでとうございます。

しかし、これはゴールではありません。四国総体は、新たな挑戦と成長の場です。更なる高みを目指して、自分の、そして自分たちの力を信じ、自信を持って、戦い抜いてください。皆さんが、最高のパフォーマンスを発揮し、活躍してくれることを、生徒、教職員一同、心から願っています。健闘を祈ります。

県総体壮行会

2024年6月4日 15時11分
校長室より

県総体の壮行会で、次のようなお話をさせていただきました。

皆さん、おはようございます。県総体に出場する、選手の皆さんに向けての、激励の言葉の前に、まず、皆さん全体に、紹介しておきたいお話があります。

先日、本校で同窓会の役員会があり、地元の役員の方たちに加え、関東支部の会長さん、松山支部の会長さんも、遠くから参加してくださいました。卒業してから60年近く、母校を訪れるのも久しぶりだ、という会長さんたちと、話をする中で、「川高生の皆さんが、見ず知らずの自分たちに、「こんにちは」と大きな声で挨拶してくれるのに驚いた。本当にうれしかった。」との言葉をいただき、私自身もうれしく、また誇らしく思いました。

皆さん一人一人が、当たり前のように行ってくれている挨拶ですが、皆さんが思っている以上に、周りに明るさと、元気を与えてくれているのだなと、改めて実感した出来事でした。

話を部活動関係に戻しますが、私も、毎日、廊下などですれ違う時にしてもらう挨拶からはもちろん、朝の出勤時に、朝練をしている人がしてくれる挨拶や、夕方、帰る車に向かって、グランドや体育館、武道場や卓球場から会釈をしてくれる皆さんの姿から、私も頑張ろう、という前向きな気持ちを、もらっています。

そして、このように、部活動を行う皆さんの、明るい挨拶や、部活動に熱心に取り組む姿から、毎日の元気や勇気をもらっているのは、私だけでなく、本校の、他の先生や生徒、地域の方々も一緒だと思います。

本日は、県総体の壮行会ですが、県総体に出場できなかった部活動や、レギュラーとしてこの場に立てなかった皆さんも、これまでに自分達が行ってきた部活中の挨拶や、一生懸命部活に取り組んできた姿が、周りに大きな力を与えてきたのだ、ということを知ってほしいですし、自信を持ってほしいと思います。

そして、県総体に出場する皆さんは、県大会という大きな舞台で戦う機会を得られたこと、また、多くの人たちが、皆さんを支えてきてくれたことに感謝しながら、一人一人が、持てる力を出し切れるよう頑張ってきてください。

皆さんを、教職員、在校生、そして地域の方々全員が応援しています。健闘を祈っています。

第1回農業クラブ総会

2024年5月1日 14時08分
校長室より

農業クラブ総会で、成人代表あいさつとして、次のような話をさせていただきました。

皆さん、こんにちは。

私は、ここ川之石高校の校長になるまで、農業科のある高校に勤めたことがなかったので、川之石高校に来てから、野菜やその苗、花やマーマレードなどを購入して、自宅で楽しませていただいています。

また、自宅だけでなく、親や親戚、友人などにも、これら川之石高校の農産物を配っているのですが、それをおいしい、とか、きれいとか褒められ喜ばれると、とても誇らしい気持ちになります。

人をこのような気持ちにさせることができる農業は、素晴らしい産業だなと改めて実感していますし、それを学んでいる皆さんは、とてもいい選択をしているなと感じています。

そして、みなさんのように、農業を学ぶ生徒による、「自主的・自発的」な組織として、今から70年以上前に誕生したのが、この農業クラブです。皆さんと同じ若い世代の高校生が、未来の農業の発展のため、興味を持って農業を学び、未来の農業を担う人材となることを目指して、全国で活動しています。

本日は、この後、今年の事業計画などが話し合われると聞いていますが、皆さんも、是非、「自主的・自発的」に、自分自身でやれることを見つけ、積極的に取り組んでいただきたいとお願いし、挨拶とします。

入学式

2024年4月10日 13時17分
校長室より

4月9日に、73名の新入生を迎え、全校生徒237名による新たな学校生活がスタートしました。

入学式では、新入生と保護者の皆様に、式辞として次のような話をさせていただきました。

暖かい春の季節を迎え、新緑の若葉がすくすくと伸びる今日のよき日に、多くの御来賓の皆様、保護者の皆様の御臨席を賜り、令和6年度 愛媛県立川之石高等学校第77回入学式を挙行できますことは、本校教職員一同の大きな喜びでございます。厚くお礼を申し上げます。

ただ今、入学を許可いたしました73名の新入生の皆さん、入学おめでとうございます。皆さんを心から歓迎いたします。保護者の皆様におかれましては、お喜びもひとしおのこととお祝い申し上げます。

本校は、大正3年に実践農業学校として開校して以来、「体験」から学び「人格」を養成する、という校風を受け継ぎ、今年度、創立110周年を迎える、歴史と伝統のある学校です。卒業生は、1万7千名以上に上り、多くの先輩方が、経済界や文化・芸術界などにおいて、地元はもとより、日本全国で、大いに活躍されています。

新入生の皆さんは、本校の伝統を誇りとし、先輩方を目標として、これからの3年間、自分の力を精一杯伸ばし、その力を十分に発揮しながら、充実した高校生活を送ってほしいと願っています。

その高校生活の始まりに当たり、本校の校歌についてお話をします。1番から3番までの校歌は、いずれも、母校、川之石高校を称える、「ああ わがまなびや」という言葉で締めくくられます。そして、その言葉の前には、本校の3つの在るべき姿、すなわち、1番は「ふかき真をきわむるところ」、2番は「清き心をはぐくむところ」、3番は「若き力ののびゆくところ」、が、掲げられています。

本校は、校歌の1番で、本当に大切なことを一生懸命に追究することができる学校であること、2番で、素直で誠実な心を大事にする学校であること、3番で、一人一人が力を高め発揮することができる学校であること、を、宣言しているのです。

新入生の皆さんには、これから、校歌を歌ったり、体育館に掲げられた歌詞を見たりするたびに、この歌詞の意味を思い返してほしいと思います。

日々の生活の中で、周囲に流され、惰性で過ごしてしまいそうになった時には、「自分にとって、大切なものを見失っていないか」「誠実な心で、人と接しているか」「自分の力を、伸ばす努力をしているか」、と、自分自身に問いかけてみてください。

私は、皆さんが、高校生活の中で、自分自身と自分の夢を大切にし、また、それと同じように、相手と相手の夢を尊重する心を育て、互いに励ましあいながら、それぞれが、なりたい自分となり、その夢を実現することを目指して、大きく成長されることを、心から期待しています。

最後になりましたが、保護者の皆様に申し上げます。お子様は、これから一歩一歩、自立への道を歩むことになります。心の優しい、生きる力を持った若者に育つことは、御家庭と学校の、共通の願いです。私たち教職員一同は、本日からお子様をお預かりし、御家庭と協力しながら、精一杯、その歩みを支えてまいります。

ここに、あらためて、本校の教育活動に対する御理解と御支援を賜りますよう、お願いを申し上げ、式辞といたします。

第1学期始業式

2024年4月10日 12時24分
校長室より

川之石高校も2年目となりました。校長の矢野重禎と申します。今年度もよろしくお願いいたします。

令和6年度、第1学期終業式の式辞として、次のような話をさせていただきました。

改めまして、皆さん、おはようございます。今日は、令和6年度、第1学期の始業式です。

先日の、終業式から、まだ二十日、離任式からでは、まだ十日ほどしか経っていませんが、あの時に2年次生であった皆さんは、学校のリーダーとして下級生を導く3年次生に、1年次生であった皆さんは、学校の中核として活躍する2年次生になりました。そして、明日には、新しい1年次生が入学してきます。

季節は巡り、毎年同じことの繰り返しに見えるけれど、その間に、人も自然も、少しずつ、しかし、着実に成長しているのだ、という話を何かで読みましたが、皆さんの様子を見ると、本当にそう思います。

さて、そのように、成長の可能性あふれる皆さんに、先日の終業式では、花の呼び名を例にして、「言葉には力がある。言葉を大切に使ってほしい。」というお話をしました。

明日、入学してくる1年次生の中には、新しい環境で、不安を感じている人も、いると思います。分からないことがあったり、困っていたりする様子を見かけたら、皆さんの側から、言葉をかけてあげてください。その言葉により、力づけられる1年次生が、必ずいます。

どのような言葉をかければよいか、迷うかもしれませんが、そのような時には、自分が相手の立場だったら、どのような言葉をかけてほしいか、考えてみましょう。

逆説的に聞こえるかもしれませんが、相手を大切にできる人は、自分自身を大切にできる人だと思います。自分自身を大切にするからこそ、相手から大切にされるとは、どのようなことなのか、どのようなときに大切にされたと感じるのかを、理解できるのではないでしょうか。

今年度、3年次生の皆さんは、進路決定の年次として、2年次生の皆さんは、その準備の年次として、大切な年を迎えます。皆さん、自分自身の気持ちや、将来の夢を大切にしてください。そして、自分自身の気持ちや夢と同じように、相手の気持ちや夢を、大切にできる人になってください。

皆さんが、お互いの夢の実現に向け、互いに励ましあい、応援しあえるような仲間として、成長していくことを期待して、第1学期始業式の式辞とします。

第3学期終業式

2024年3月19日 10時08分
校長室より

第3学期終業式の式辞として、次のような話をさせていただきました。

改めまして、皆さん、おはようございます。今日は、3学期の終業式です。

「式」と言えば、先日の卒業式は、皆さんが、3年次生のために、心を一つに取り組んでくれたおかげで、大変、立派な式となりました。ありがとうございました。

さて、今日は、その卒業式の日に、なるほど、と思ったことから、お話しようと思います。

卒業式の日、式場に、きれいな花が、いっぱい飾られていたことには、皆さん、気づいたと思います。本校で大切に育てられた花で、式の後には、事務室前で販売され、多くの方に、喜んで買って帰っていただきました。

私自身も、計6鉢、購入させてもらったのですが、その花の横には、その名前として、「シネラリア」かっこ「サイネリア」、と、2つの名前が掲示がしてありました。

なぜなのかなと、調べてみると、以前は、「シネラリア」と呼ばれていたものが、「死ね」という言葉を連想させるということで、最近は、「サイネリア」と呼ばれるようになったとのことで、なるほどな、と思ったのです。

このような言いかえは、他にも聞いたことがあります。川などの水辺に生えている背の高い草の「あし」は、「悪しき」という言葉を連想させるので「よし」に、イカをほした「するめ」は、お金を、ギャンブルなどで「する」という言葉を連想させるので、「あたりめ」に、果物の「なし」も「なし」はよくないので「ありのみ」と呼んだりする、というようなものが、例として挙げられると思います。

このように、昔から私たちは、言葉には力があると考え、悪いことを連想させるような言葉を使うことを避けてきました。 

言葉は、コミュニケーションツールとして、私たちの日常生活に欠かせませんが、言葉には、人を傷つけたり、誤解を与えたりするような力も ありますので、言葉の使い方には、十分注意しなくてはなりません。

もちろん、その一方で、言葉には、人を励ましたり、勇気づけたりする力もあります。

困っている人に優しい言葉をかけたり、目標に向かって努力している人を応援したりすることで、相手の心を大きく動かすこともできます。

そして、そのような言葉を用いることで、相手の人だけでなく、自分自身も、明るく、前向きに考え、行動することができるようになるのではないでしょうか。

言葉は、自分の心を映す鏡だと言われます。自分がどんな人間になりたいのかを考え、なりたい自分にふさわしい言葉の使い方を、普段から、意識しながら、家族や友人、先生たちとの会話を楽しんでほしいと思います。

以上、新しい年次を迎える心構えとしてお願いし、第3学期終業式の式辞とします。

第3学期校内球技大会

2024年3月14日 08時42分

3月13日に実施された校内球技大会で、次のような趣旨の挨拶をさせていただきました。

皆さん、おはようございます。

今日は、第3学期の、校内球技大会です。

1学期の球技大会は、新型コロナ感染症拡大の影響で実施できませんでしたが、2学期の球技大会は予定通り実施でき、私も川之石高校で、初めての球技大会を、しっかりと観戦することができました。

2学期の球技大会を観戦しての感想ですが、まず一つ目に、皆さん、とても上手だなと思いました。専門の競技ではないはずなのに、なぜ、こんなに上手なのかと驚きました。

そして、二つ目ですが、皆さん、とても楽しそうだなと感じました。

球技大会で、勝つことを目指すのは当然ですが、それだけでは、みんなが楽しめる球技大会には、なりません。プレーする時も、応援する時も、味方チームのメンバー、対戦チームのメンバー、そして審判など、相手の立場や気持ちを、思いやることができてこそ、みんなが楽しめる、素晴らしい球技大会になるのだと思います。

2学期の球技大会が、私から見て楽しそうに感じたのは、皆さんが、互いに思いやりを持ってプレーしていたからだと言えるのではないでしょうか。

今日の球技大会は、3年次生が卒業し、1・2年次生だけで行う大きな学校行事です。皆さんが、思いやりを持ってプレーしてくれることで、楽しく、安全な球技大会となるよう期待して、開会のあいさつとします。

「図書館報」第79号

2024年3月6日 11時18分
校長室より

「図書館報」第79号に、「活字の楽しみ」の題で、次のような文章を掲載させていただきました。

私の好きな作家の一人に椎名誠さんがいます。椎名誠さんは、その作品が国語の教科書に掲載されたりしているので、皆さんの中にも知っているという人がいるのではないでしょうか。初期の「昭和軽薄体」と呼ばれたエッセイから、「怪しい探検隊シリーズ」等の冒険?小説、「岳物語」等の私小説、「武装島田倉庫」等のSF小説まで、そのジャンルは幅広く、どれも面白く読みやすくいものばかりです。教科書等で読んだことがあるという人も、それ以外のジャンルの作品にも手を伸ばして、ぜひ読んでみてください。

その、椎名誠さんの作品に、「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」というものがあります。あるトラブルをきっかけに、本がない生活など耐えられないというほど読書好きな友人に対して恨みを持った主人公が、報復のためにその友人を味噌蔵に閉じ込め、活字というものを一切読めないようにしてしまう、というお話です。

「活字中毒」という言葉には馴染みがないかもしれませんが、文字を読むことが好きすぎる人や状態を指す言葉として使われています。読書好きで知られ年齢も皆さんと近い、女優でタレントの芦田愛菜さんも、自分自身のことをそう表現し、「読むものがないときは調味料の裏まで読んでしまう」と述べているそうです。

私自身は、よほどでないと調味料の裏まで読もうとは思いませんが、公共施設などに置いてある企業や自治体の広報誌、バスや列車の座席の背もたれに挟んである広告やパンフレットなどには、つい手を伸ばしてしまいます。校長室にも、いろいろなところから学校に送っていただいた広報誌やパンフレットが回覧されてくるのですが、時間がないときには少し手元に置かせてもらうなどして、ほぼ目を通していると思います。

ちなみに、今、手元には、西宇和農協や電力会社、農業クラブの広報誌、地域研究センターによる県内企業経営者へのインタビュー集などがあり、「みかんの宣伝販売車、にしうワゴン」「河野さんの早生みかん、県知事賞受賞」「幻の果実、柚香(ゆこう)」「佐田岬はなはな、地中熱と青石を利用し冷暖房」「あわしま堂、そのターニングポイント」などの記事を楽しく読むことができました。変わったところでは、日本石灰窒素工業会発行の「石灰窒素だより№158」という冊子があり、内容は専門的過ぎてあまり頭には入りませんでしたが、そのネーミングと158号も発行されているということについて楽しむことができました。

このように活字が好きな私ですので、本そのものも、読み終わったからとか古くなったからといってなかなか手放すことができません。先日も、本校の図書館の収蔵本の廃棄リストが回ってきたのですが、本当に廃棄していいのかな、とリストを見直してしまいました。毎年、新しい本が入ってくる以上、廃棄しなくてはならない本があることは分かっていますし、知識や技術そのものが古くなってしまった実用書などについては廃棄も仕方ないと思うのですが、いったん廃棄してしまうと、その本に込められていた知識や作者の思いは、永久に消えてしまいます。そのような目でリストを見て、「郷土史話 百姓一揆」という本については、実物を校長室まで持ってきてもらいました。読んでみると、この西宇和地区という郷土に生きた私たちの祖先が、みんなの命をつなぐために起ち上がった歴史が生き生きと語られていました。廃棄するには忍びなく、今もこの本は手元に置いてありますので、興味がある方はどうぞ。そして、私自身が小中学校時代から捨てられず、自宅の本棚に並べている本やその作者については、またの機会があれば書かせていただこうと思います。

「たちばな」第65号

2024年3月1日 12時33分
校長室より

「たちばな」第65号の巻頭言として、「故郷に誇りを ―自己のよりどころとして―」の題で、次のような文章を掲載させていただきました。

令和5年度は、今後の川之石高校にとって大きな意味を持つ1年となりました。令和5年3月に愛媛県県立学校振興計画が発表され、全日制の県立高校と中等教育学校が、令和9年度までに、現在の55校から45校に再編されることになったのです。八幡浜地区では、令和8年度に、本校と八幡浜高校、八幡浜工業校が統合されることになりました。2学期には新しい学校の校名を決めるためのアンケートが実施されたり、制服に関する話し合いが始まったりするなど、皆さんも、統合が近づいていることを実感しているのではないでしょうか。

ところで、この振興計画の策定に当たっては、地元の方たちの意見を聞くために、各地区で、「地域協議会」や「地域説明会」が開かれてきたのですが、県のホームページに掲載されている八西地区での記録を見ると、「八幡浜市3校の統合については、他地域に先んじた検討を」といった意見が出されるなど、県内の他の地域に比べて、高校の統合に前向きであったことが分かります。

このことについて、県内の産業や歴史に詳しい方が、「八幡浜は伝統的に商人の町だ。殿様に頼り従うのではなく、自分たちで考え行動する主体性と進取の気性を持っている。そのため、母校を残したいとの思いがあるのは当然である中、生徒数の減少等の状況から、市内3校を統合して南予最大規模の高校として発展させた方がよいと判断してこのような意見が出されたのだろう。」とおっしゃっているのを聞いて、なるほどと思いました。

皆さんは、この八幡浜地区が、古くは「伊予の大阪」と謳われ、中でも川之石は、明治11年(1878年)に本県で最初(四国で2番目)の国立銀行である「第二十九国立銀行」(今の伊予銀行)が設立された地であることは知っていると思います。

この資金を活用して、明治20年(1887年)に、四国で初の紡績会社であり四国で初めて電灯が灯された「宇和紡績株式会社」(後の東洋紡績)が設立され、同じ明治20年代に、別子銅山に次いで四国第2位の産出量を誇った銅鉱山が開発・操業されました。ちなみに、もともと川之石は埋め立てが盛んな地域で、川之石小学校や伊予銀行の辺りも海だったところですが、中学校の敷地はこの鉱山の廃石の捨て場として造成されたものです。二十九銀行を核として、川之石は、南予の商業・金融の中心地として発展しました。

では、なぜ、愛媛で最初の近代銀行が、松山でも宇和島でもなく、この川之石の地に設立されたのでしょうか。

雨井、川之石という良港を持つ川之石は、江戸時代から海運業が盛んでした。川之石の廻船問屋は千石船を持ち、地域特産の「木蝋」や魚、九州方面の米や材木などを大阪に輸送していました。川之石や周辺の豪商や豪農らも、この大阪との交易にはもちろん、長崎貿易にも直接関わっていたそうです。明治時代の記録ですが、川之石村の帆船は約500隻、年間の出入港は約2600~2900隻もあったということです。

この海運を通して、日本の商業の中心であった大阪(川之石出身者も多くいた)から、最新の知識と情報が、松山などは飛び越えて届けられていたことが、ここ川之石における銀行の設立と、その後の発展につながりました。当初、銀行設立の話は宇和島に持ち掛けられたそうですが機運が盛り上がらず、その話は「蝋座」を設けて金融が豊かであった川之石に持ち込まれました。話が持ち込まれて半年後には銀行が営業を開始しており、その対応の早さには驚かされます。

銀行を立ち上げ株主となったのは12名で、士族は含まれておらず、ほとんどが保内組の商人たちでした。設置場所は川之石浦5番地、資本金は10万円で、これは現在の価値に換算すると十数億円に当たります。話を持ち込んだ伊達家や公的な機関からの出資は一切なく、この金額を分担するため12名は同盟書を締結するなど、非常な覚悟を持って設立に臨んだそうです。

このように、ここ川之石に設立された二十九銀行は、商人の手によって生まれた銀行で、貸出先も商人が中心でした。これは、この後、松山と西条に設立された銀行が、秩禄処分の一環として士族らに交付された金禄公債の資金をもとに士族を中心に設置され、貸出先も士族の新規事業が中心であったのと対照的です。

この地域の発展に大きく貢献していった二十九銀行の設立とその背景には、ここ川之石の人たちの、先進性や企業家精神がよく現れていると思います。

そして、ここ川之石の人たちの、新しいもの、新しい世界を求める精神が現れているのは、商業の分野だけではありません。世界初の、個人の船での太平洋帆走横断も、ここ川之石港から川之石の人たちの手によって行われました。

これを成し遂げた吉田亀三郎は、明治5年(1872年)2月28日に、川之石村楠浜で生まれました。亀三郎は、宇和海の腕のよい叩き上げの漁師で、ヤマたてがうまく操船にも長け、船長としての判断力や胆力にも優れていたので、「漁師の神様」と称されていたそうです。30歳のときにシアトルに渡り5年間働いて財をなし、帰郷して事業を始めましたが、ペストの流行が原因で失敗に終わりました。失地回復のため再度アメリカを目指しましたが、日本人の流入が警戒され労働移民が禁止されていたため、亀三郎は自ら船を仕立ててアメリカに渡ることを決意したのです。

明治45年(1912年)5月5日、リーダーで船長の亀三郎を始めとする5人は、住吉丸という「打瀬船」(底引き網で漁をする帆船。船体は伝統的な和船構造で、3本の帆柱を持つ)」で川之石港を出発、一路ワシントン州シアトルを目指しました。途中、進路を失い、南のガラパゴス諸島辺りまで流されたりしましたが、そこから北に向かって航海を続け、日本を発って76日目の7月18日に、目的地のシアトルより2000キロ南のサンディエゴにたどり着きました。この住吉丸の航海は、個人の船で成し遂げられた、世界初の太平洋帆走横断です。

亀三郎をリーダーとする5人の太平洋横断は、日本人排斥の動きのある中でも、小さな船で太平洋を渡ったセーラーたちの快挙として現地の新聞でも報じられましたが、この時は移民局により強制送還されてしまっています。しかし亀三郎は翌年もまた、川之石港から大規模に25人の仲間を引き連れて2度目の太平洋帆走横断を成し遂げ、カナダへ上陸しました。この時は取り締まりを逃れ、アメリカに移動して財をなし、日本にも何度か帰国しています。記録によればカナダ東部の鮭魚場で一番の船頭として働き、サーモン漁等で行なわれるトローリング漁法(打瀬舟漁法?)を現地の漁師たちに教え、現在まで受け継がれているそうです。

この小さな船で行われた太平洋帆走横断という偉業も、ここ川之石の人たちの、積極性とチャレンジ精神を現していると言えるのではないでしょうか。

川高生の皆さんは、ここ川之石の地と川之石の人たちが、このように素晴らしい歴史と伝統、精神と行動力を持っていることを誇りとしてください。これから社会に出れば、勉強、運動、仕事など多くの分野で、自分より優れた才能や実力を持った人たちと出会うことになります。これまで自信を持ってきたものについても、その自信を失ってしまうことがあるかもしれません。しかし、そのようなときにでも、絶対に負けないものが、自分たちの故郷や故郷に住む人たちに関する知識や思いです。

川高を巣立っていく3年次生の皆さんは、故郷への誇りを自己のよりどころとして、迷ったときにはいつでも頼り、帰ってきてほしいと思います。故郷は皆さんを温かく迎え、支え続けてくれることでしょう。