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川高の生徒の皆さんへ

2022年3月31日 09時39分

 生徒の皆さん、春休みをどのように過ごされていますか。来る4月・5月に行われる大会に向けて部活動を頑張っている人。新しい年次への備えをしている人。将来の進路について考えたり調べたりしている人。卒業した3年次生の中には新しい場所へ旅立った人もおられるでしょう。それぞれに充実した休みにしてください。生徒会誌『たちばな』の巻頭言に書いた「ヒマラヤスギが見守るもの」を載せ、皆さんにエールを送ります。


 令和3年12月末、学校に一本の電話がかかってきました。ご一報くださった方の話では、八幡浜市内の交差点で、車いすを使用している人が転倒され、とっさに本校の男子生徒が助けた様子を見られたのだそうです。どうしても、そのことを学校に伝えたくて連絡をくださった、ということでした。電話を受けた教員のうれしそうな声での報告を聞きながら、体の芯から温かくなるような深い喜びに満たされました。困っている人を見て、当たり前のように善きことを行う川高生。本校生徒にこうあってほしいと願う姿を生徒自身が示してくれたのです。このようなできごとに立ち会えることが、教員にとっての幸せです。
 私の敬愛する先輩が、折に触れて書き送ってくださる言葉があります。それは、農学者・教育者であり国際人でもあった新渡戸稲造が作った、「見ん人のためにはあらで奥山に おのが誠を咲く桜かな」という歌です。人が足を踏み入れることのない山奥に自生する桜は、誰に見せるでもなく自分の真実の姿(花)を咲かせる、という意味に解釈しています。そして、その歌が添えられた便りをいただくたびに、常に自らの生命をみなぎらせる桜の美しい花を想像しつつ、「誰も見ていない、気付かないときこそ誠実であろう」、というエールとして受け止めています。
 先の生徒は、人が見ているから、ほめられたいから、知り合いだからではなく、誰かが見ていようが見ていまいが、困っている人が誰であれ、その人の置かれた状況を見て、その人の立場に立ち行動したのでしょう。報告を受けたとき、新渡戸の歌が頭に浮かびました。そして、奥山で咲く桜の人知れぬ「誠」に美しさを感じた新渡戸がそれを歌にしたのと同様に、当然のように人助けをする生徒の誠実さに心打たれた方が、わざわざ伝えてくださったのだと思いました。

 これまで、入学式や各学期の始業・終業の式辞、集団研修や川高祭などのあいさつの中で、本校の校訓に触れ、その三つの言葉に託されていると思える、願いについて話をしてきました。
 一つ目の「誠実」には、真心をもって、誰とでも接し、何事にも取り組み、自分を大事にしながら他の人も大切にする、心の大きな人になってほしい、という願いが込められています。フランスの小説家・アルベール=カミュの作品『ペスト』には、疫病と戦う人たちの行動を通して、人間の力では解決困難な状況を乗り越えるために、私たちはどのように生きるべきかが描かれています。主人公の、「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」「僕の場合には、自分の職務を果たすだけです」、「原動力となっていたのは、ささやかな仕事で役に立ちたいということだけでした」などの言葉から、どのような状況でも自分のすべきことに丁寧に取り組む、その誠実さこそが最も大切である、という作者の考えが読み取れます。現実においても、世界規模で流行している新型コロナウイルス感染症対策に日々取り組んでいる今、予防策を含め自分のすべきことを行い続ける私たち一人ひとりの誠実さが試されています。
 二つ目の「審美」には、物事を正しく見分け、美しいことに気付き、明るく前向きな気持ちになってほしいということ、特に、人の優しさの中に美しさを見いだし、「人間には嫌な面はあるけど、素敵ですばらしい面がある」とか、「人生には辛く悲しいことはあるけど、楽しくうれしいことがある」ということを知ってほしい、という願いが込められています。昨年の11月に行った川高祭は、どの企画も創意工夫がなされ、一生懸命に練習や準備がなされたことの分かるすばらしいものでした。演奏やパフォーマンス、展示作品はもちろんのこと、柔軟な発想力、難しいことに挑戦する勇気、高い完成度を目指す真面目さ、参加者に楽しんでもらおうとする思いやり、展示物や演奏などを熱心に見たり聴いたりする実直さなど、生徒たちの活動や振る舞いはいずれも、自分のためだけではなく誰かのためのものです。そこに深い優しさと美しさを感じました。児童文学作家の斎藤隆介は、『花さき山』で、人間が思いやりの気持ちをもって優しいことを一つすると美しい花が一つ開き、そのような花が一面に咲いた山の話を書いています。『花さき山』は、優しい行為が気高く美しいものであること、多くの人が見返りを求めることなくそのような行いをしていて、どこかで花を咲かせていることを教えてくれます。優しいことをした者、された者、それを知った者、それぞれの心の中に「花さき山」はあるのでしょう。川高祭の当日、私の中の花さき山に、たくさんの花が開きました。
 三つ目の「自学」には、自分から学び、判断し、行動する力を身に付け、どのような大人になりたいかを考えながら、自ら人生を切り拓く、たくましさを持つ人になってほしい、という願いが込められています。昨年の夏から冬にかけて、就職や進学を志望する3年次生に面接練習を行いました。中には、校長室を何度も訪れ、面接練習を望む生徒もいました。誰もが真剣に、自分の適性や能力について考え、受験する企業や職種、学校や専攻分野について一生懸命に調べていました。そのような、自学をすることで成長著しい生徒たちに、面接の心構えを繰り返し話しました。それは、あなた自身の将来にかかわることで時間と労力をかけてくださっている企業や団体、学校の関係者への感謝の気持ちと、自分のことをわかってほしいという気持ち、その両方を忘れずに面接に臨んでほしいという内容でした。誠実な気持ちは生徒自身を内面から磨き、必ず面接官に伝わると思っています。私の話を聞く生徒たちの表情や態度から、自分にとって大事なこととして学んでくれたことが分かりました。

 校訓の三つの言葉は、それぞれ深く結びついています。誠実であろうと努め、それを見分ける審美眼を養うために自ら学ぶ。皆さんには、これからも心豊かに一日一日をおくり、誰かと力を合わせて生きること、それを楽しむ人であってほしいと思います。
 人間には、自分たちの力を超えた、神々しささえ感じるような自然物が必要だと考えています。なぜなら、人間に自らの有限性を自覚させ、思い上がりを自戒させる存在だからです。私は、本校の大きく美しいヒマラヤスギを初めて見たとき、その荘厳さに圧倒され、魅了されました。そして、昨日と今日とでは見分けがつかないほどの生長を100年間続け、今の姿に至ったことに胸を打たれました。
 3年次生の皆さん、卒業おめでとうございます。このヒマラヤスギは、これからも皆さん一人ひとりを見守っています。