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図書館報

2025年3月4日 11時21分
校長室より

図書館報に、「文字は超える」の題で、次のような文章を掲載させていただきました。

先日、NHKで放送中のアニメ「チ。 -地球の運動について-」を観ていると、印象的なシーンがありました。舞台は15世紀のヨーロッパ、学ぶ機会がなく、文字を読むことができない登場人物が、

「文字が読めるって、どういう感じなんですか?」

と問い、そう問われた、文字を読むことができまた優秀な能力を持っているのですが、女性であるがゆえに学問の道を閉ざされてしまっている登場人物が、

「本当に文字は凄いんです。アレが使えると時間と場所を超越できる。200年前の情報に涙が流れることも、2000年前の噂話で笑うこともある。そんなの信じられますか?私たちの人生はどうしようもなくこの時代に閉じ込められてる。だけど、文字を読む時だけは、かつていた偉人たちが私に向かって口を開いてくれる。その一瞬この世界から抜け出せる。文字になった思考はこの世に残って、ずっと未来の誰かを動かすことだってある。そんなの…まるで、奇跡じゃないですか。」

そう答える、というシーンです。

「文字は時間も場所も超越する。」と、そこまで大げさなことではなくても、本は、それが何十年も前に買ったものであっても、手元に残しておけば、いつでも何度でも読むことができます。たとえその作者が亡くなっていたとしても、その本を開くと、その作者に出会えたような気持ちになれますので、読者としては、その作者が生きていても亡くなっていても、あまり関係ないのかもしれないなとも思います。一つ残念なのは、新しい本が出ないということでしょうか。ですので、古本屋さんなどで、その作者の、読んだことがなさそうな本を見つけるとパラパラめくって、「読んだ気もするし、持ってるかもしれない。でも持ってなかったら、今を逃したらもう買えないかもしれない。」などと悩んだ末に買い、家に帰って本棚を見ると同じ本が並んでいる、という失敗を何度も繰り返しています。先日も(というか、これを書いている日からすると昨日)、松山の古本屋さんで、ナンシー関さんの本を見つけ買ったのですが、案の定、家には同じ本がありました。

ナンシー関さんは、もう20年以上前に亡くなっているので、知らない人の方が多いと思います。Wikipediaによると、「世界初の消しゴム版画家、コラムニスト。独特の観察眼による『テレビ批評』と、その挿絵に入れた著名人の似顔絵『消しゴム版画』で、社会そのものを批評していた。」と紹介されています。人や社会を批評する視点と文章は頭抜けていて、今でも、「この人、この出来事を、ナンシーさんならどのように批評するかな、ナンシーさんの意見を聞いてみたいな」と思うことが、年に何度かあります。

そのナンシーさんの言葉で、ふと、何かの拍子に思い出すものに、

「いくらおでんの中で玉子が好きで、どのタネも70円均一であっても、セブン・イレブンで玉子ばかり7個も8個も買うというのは節操がない。自分のカネで勝手だろうが、という根性が無節操なのだ。私も玉子は好きだ。でもおでん一皿に玉子は1個。何に気兼ねしているということではない。外してはいけない心のタガ、それが節操。」

というものがあります。今回、この言葉をネットで検索すると、ナンシーさんの言葉の中で心に残っているものとして挙げている人がかなりいて、少しうれしくなりました。

ナンシーさんが亡くなってから書かれた評伝に、『心に一人のナンシーを』というものがありますが、この言葉の通り、ナンシーさんは、今も読者の心の中にいて、その人たちの考え方や行動に目を光らせ、またその人たちは、ナンシーさんに批評されても大丈夫かどうかということを一つの基準として、考え行動しているのだと思います。

先行きが不透明でこれまでの価値観が大きく変化し、よくもわるくも「自分」の考え方や行動の自由度が増している今だからこそ、心の中に自分を律する何かを住まわせることが必要なのではないでしょうか。その何かに、時代や場所を超えて出会うことができる、それが文字であり読書なのだと思っています。