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たちばな66号

2025年3月4日 11時27分
校長室より

「たちばな66号」に、『母校に誇りを -ここ川之石にある学校として-』の題で、次のような文章を掲載させていただきました。

川之石高校は、今年、創立110周年を迎えました。卒業生は1万7千名を超え、全国各地・各界で目覚ましい活躍をされていること(今回の110周年記念式典では、本校卒業生で、太陽パーツ株式会社取締役会長の城岡陽志様に、前回の100周年記念式典では、同じく本校卒業生で、俳人・国文学者の坪内稔典様に御講演をいただきました。)、また、卒業後も地元に残り、地域社会で中心的な役割を果たされている先輩方が多くいらっしゃることは、私たちにとって大きな財産です。

そのような本校ですが、令和5年3月に愛媛県県立学校振興計画が発表され、令和8年度に八幡浜市内3校が統合されることになっています。農業系列の生徒はそのまま継続して、福祉系列の生徒もしばらくの間は、現在の川之石高校のキャンパスで学ぶことになっていますので、現在の川高から生徒の姿がなくなるわけではないのですが、「川之石高校」の校名が、あと数年でなくなるというのは、やはり寂しいものだと感じています。

その「川之石高校」という校名についてですが、私自身が校長となって初めて聞いた話として、「愛媛県で、郡市町でない、地区の名称が校名となっている唯一の高校である」というものがありました。調べてみると、川之石高校は、昭和23年に、「伊方農業学校」と「川之石高等女学校」を母体として設立されましたが、この時、川之石は、西宇和郡川之石町という独立した町であったようです。とすると、町名が校名となっていますので、特別な校名ではなかったということになりますが、その後、昭和30年に、川之石町・磯津村・宮内村・喜須来村が合併し保内町となった際、校名の変更が検討されたとの記録も見つけました。保護者等の意見は、「川之石」高校が多数で(「保内」高校、「橘」高校、「青石」高校が少数)、川之石の校名が継続されることになり、町名でなく地区名が校名となっている県下唯一の高校、ということになったようです。本校の校名である「川之石」が、地域の方々に愛された名前であることを示したエピソードと言えそうです。

そういう私も、ここ「川之石」には、とても親しみと愛着を感じています。私は、地歴・公民科の教員ですので、校長として赴任する前から、川之石の街を巡検するなどして知っていましたし、自分の子供が小さい頃には、もっきんろーどや金刀比羅神社を家族で散歩したこともあります。ですが、やはり特に好きになったのは、校長になってからでしょう。私は、時間があるときに、校舎近くの山にある和田4号園辺りまで歩いてみたりするのですが、その途中の山腹から見下ろす川之石の風景は、とても素晴らしいものです。

まず、海を見ると、きれいな深い湾が広がっています。湾の沖の方向に目をやると、湾の出口は半島で囲まれ狭まっており、台風などの波や風に強い港だなと感じます。地図を見ても分かりますが、八幡浜港は、ラッパのように沖に向かって広がっていて、波風には弱そうです。港としては川之石港の方が優れており、かつて川之石が海運で発展し、伊予の大阪と呼ばれていたというのも頷けます。今から120年ほど前の明治時代には、川之石村で約500艘の船を所有し、毎日10艘から20艘の船が、関西や九州との交易のために出入港していたとの記録がありますので、何百艘もの船が、この湾に浮かんでいたという、その壮観を想像しながら、「もし長浜へと通じるルートの山がもう少し低ければ、あるいは鉄道が川之石を通っていれば、南予の中心は川之石だったのではないかな」、「実際、紡績会社も電灯も四国初、国立銀行は愛媛初だったのだからな」、「すると川之石高校も、今とは違った学校になっていたかもしれないな」、などと思いを巡らせています。

次に、山を見ると、この季節(12月の上旬にこの原稿を書いています。)、多くのみかんが鈴なりになっています。「うまいわ にしうわ」という西宇和みかんのCMを見たことがあると思いますが、愛媛県の西南に位置する西宇和地域(八幡浜市・伊方町・西予市三瓶町の2市1町)は、100年以上の歴史を持ち、県内一の生産量を誇るみかんの産地であり、その中でも、八幡浜市は、数々の有名ブランドみかんの産地として知られています。川之石の風景を見ても分かりますが、この地域はリアス海岸が続き、陸地も起伏のある傾斜地で平地が少ないことから、農耕には不向きな土地でした。しかし、気候は温暖で日照量が多く、水はけもよいため、みかん栽培には最適でした。そこで西宇和の人々は、山を耕し、石を積み上げて段々畑を作りました。山から見える美しい段々畑からは、川之石のみかん農家の想いを感じることができます。みなさんも、県外の人と話すことがあれば、愛媛のみかんの中でも、外皮が薄く、また果肉を包む膜はさらに薄く、濃厚な甘さと酸味を持つ西宇和みかんを、自慢し紹介できるようになってください。みかんの段ボールに、西宇和の頭文字である「N」の字をかたどったNマークを探し、見つけた際には、空・海・石垣から照らす「三つの太陽」の話を付け加えながら紹介できるようになれば、なおよいと思います。

最後に、風景として見えるものをあげると、海に向かって山と山の間に挟まれたように広がる平地と、そこを流れる喜木川と宮内川という二つの川があります。この平地ですが、川之石は昔から埋め立てが盛んで、その埋め立てには、明治から大正にかけて、川之石の主要産業であった、銅山の廃石も使われました。保内中に向かう道で、喜木川に架かる橋から下をのぞくと、澄んだ水の川床にはきれいな石が並んでいて、これも埋め立ての名残なのかな、などと考えたりします。別子銅山に次ぎ四国第2位の産出量を誇った銅山も、川之石を語る上で欠かせないものだと思います。

また、もう一つの川である宮内川の右岸には、伊予の青石を石材とした矢羽根積の護岸が見られます。青石が織りなす綾が美しい護岸は、選奨土木遺産の認定を受けていて、左岸のもっきんろーどから眺めることができます。青石は、段々畑や、神社やお寺の石積みに使われていますが、その石積みは、現在では再現できない技術を用いて作られていると言われています。皆さんは、子供の頃からこの青石を見慣れているかもしれませんが、このような石や石積みは、ここより南では見ることができない、貴重な風景なのです。

以上、私は、皆さんに、「川之石」のことをしっかり知っていただき、将来、故郷を離れることがあっても、川之石のことを、誇りを持って紹介できるようになってほしいと思っています。そのため、昨年の「たちばな65号」でも、ここ川之石の、経済・産業、人物・精神面の素晴らしさについて書かせていただきました。そして今年、この「たちばな66号」では、主に地理的な素晴らしさについて書いてみました。

地歴・公民科の教員ですので、内容の好みに偏りがあると思いますが、昨年のたちばなと併せて読んでいただくと、より川之石の素晴らしさを知っていただくことができると思います。これ以外にも、養蚕や龍潭寺など、川之石で触れたいものはまだあるのですが、また機会があれば、書かせていただこうと思います。